SDA東京中央教会

地面に書かれた文字

SDAとは〜 聖書と証の書の言葉

ヨハネによる福音書 8章1〜11節
イエスはオリブ山に行かれた。朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。
すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のないものが、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
そこで、イエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるのか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。
イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」
各時代の希望(中巻) 246頁
律法学者とパリサイ人の敬虔のよそおいの下には、イエスの破滅をたくらむ深い陰謀がかくされていた。
彼らは、イエスがどんな決定をくだされるにせよ、彼を非難するチャンスをみつけることができると考え、イエスを罪に定めるのにこの機会をとらえたのであった。
もしイエスがこの女を無罪とされたら、モーセの律法を軽んじているという非難を受けられるだろう。もしこの女が死に値すると宣告されたら、イエスは、ローマ人にのみ属している権威を自分がとられたといってローマ人に対して訴えられるであろう。
イエスはしばらくその光景―恥ずかしさにうちふるえている被害者と人間的なあわれみの情さえない、こわい顔つきをした高官たちとをながめておられた。けがれのないイエスの純潔な心はその光景にすくんだ。
この問題がどんな目的で自分のところへ持ち込まれたかを、イエスはよくご存知だった。イエスはみ前にいる一人びとりの心を読み、その品性と経歴を知っておられた。
正義の擁護者を気取っているこれらの人たちは、イエスをわなにかけるために自分たちでこの被害者を罪におとしいれたのだった。
各時代の希望(中巻) 247頁
イエスは、彼らの質問を聞いた様子をなさらずに、かがみこんで、目をじっと地面にそそぎ、土の上に何か書き始められた。
イエスがぐずぐずして無関心な様子をしておられるのにがまんができなくなって、非難者たちは、そばへ近より、この問題にイエスの注意をうながした。
だが彼らの視線が、イエスの目の方向にそって、その足下の地面に落ちると、彼らの顔色が変わった。そこには、彼らの目の前に、彼ら自身の生活の罪の秘密が書かれていた。
見物していた人々は、彼らの表情が急に変わったのを見て、いったい彼らが何を見てそんなに驚き恥じているのかを知ろうとして進みよった。…
イエスは、モーセを通して与えられた律法を無視することも、またローマの権威を侵害することもされなかった。告発者たちは敗北した。
いま聖潔をよそおった彼らの衣は引きはがされ、彼らは限りない純潔そのものであられるおかたの前に、不義と罪に定められて立っていた。
彼らは自分たちの生活のかくれた不義が群衆の前にさらけ出されはしないかとふるえあがった。そしてひとりずつ、頭をたれ、目を伏せて、被害者を同情深い救い主といっしょに残したまま、こそこそと立ち去った。
各時代の希望(中巻) 248頁
女は恐怖にふるえながらイエスの前に立っていた。『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』と言われたイエスのことばは、彼女には死刑の宣告のように聞こえた。
彼女は目をあげて救い主の顔を見る勇気もなく、だまって自分の運命を待った。彼女は告発者たちが一言もいわず、あわてて立ち去るのを見て驚いた。
すると「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」(ヨハネによる福音書 9章11節)との望みのことばが彼女の耳にとびこんできた。…
彼女はイエスの足下に身を投げ、感謝に満ちた愛のあまり、すすり泣きながら、にがい涙とともに自分の罪を告白した。これは彼女にとって新しい生活、すなわち神の奉仕にささげられる純潔で平和な生活の始まりであった。
この堕落した魂を立ち直らせることによって、イエスは、最も苦しい肉体の病気をいやすよりももっと大きな奇跡を行われた。イエスは、永遠の死にいたる心の病気をなおされたのである。
各時代の希望(中)249頁
この女をゆるし、もっとよい生活をするように励ましておやりになったイエスの行為を通して、イエスのご品性は完全な義の美しさに輝いている。
イエスは、罪を軽く見たり、不義の意識を弱めたりはされないが、罪に定めようとしないで、救おうとされる。
世の人たちは、過失を犯しているこの女を軽蔑し嘲笑することしかしなかった。だがイエスは、慰めと望みのことばを語られる。 …
過失を犯している者たちに目をそむけ、彼らが堕落の道を進むのを止めもしないで放っておくのは、キリストの弟子ではない。
自分が先頭に立ってほかの人たちを非難し、律法に照らして彼らを処断するのに熱心な人々が、自分自身の生活においては相手よりももっと罪深い場合がしばしばある。
人間は罪人を憎みながら、一方では罪を愛する。キリストは罪を憎まれるが、罪人を愛される。これがキリストに従うすべての者の精神である。