フランスとベルギーの合作映画『息子のまなざし』という2002年の作品があります。主人公は木工職人で、職業訓練所の教師です。彼の息子が、ある少年によって殺され、夫婦は大変苦しい日々を送ります。
やがてその加害者である少年が、少年院を出てその訓練施設に入所し、被害者の父親のもとに弟子入りし、その父親が加害者の後見人となる、というストーリーです。少年は自分の先生が被害者の父親であることを知りません。
真実を知る父親は最初、その少年をなんとか理解しようと努めます。ある場面では、父親は、一般論として、その少年に「犯罪を犯したこと、人を殺したことについて後悔しているか?」と尋ねます。
すると、少年は「後悔している」と答えます。主人公は彼を見つめ、「なぜだ」と問い直します。もっと深い反省の言葉を聞きたかったのです。
しかし少年は、「少年院が苦しかったからだ」とだけ語ります。父親の期待はあっけなく裏切られます。こういう肩透かしが幾度かあって、主人公は少年に辛く当たったりもします。
そして衝撃のラストシーン。少年が5メートルもありそうな木材を、一人で運ぼうとするとき、主人公が手を貸していっしょに持ち上げるところで、映画は突然終わります。
終わり方が唐突なだけに印象的です。このラストシーンは、キリスト教文化圏に住む人には、大工、ゆるし、そして木を担ぐ、という題材が三つそろうのですから、当然、十字架を背負うキリストの姿が見えてくるのです。
赦しあい、その人の罪を共に背負ってゆこう。憎しみを抱えながらも、人生や社会に価値を発見しよう。報復や排除ではなく、一緒に生き抜いてゆこう。共に生きてゆくものとして、向き合うものとして、互いを見つめながら、単に置かれた環境や宿命に流されるのではなく、その中にこそ、使命を見出してゆく。これが祈りであり、神様の業に対する参与なのではないか。
そして、そのとき、他者の罪を共に負い、赦していたと思っていた自分が、実は、負われていたもの、赦されていたものであることに気づくのです。
そしてその根底にはすべての人類の罪を負って十字架につかれたイエス様、すべての人の罪をそのようにして赦され、その人に新しい使命を与え、用いようとされているイエス様がおられることに気がつくのです。