先日、新約聖書ヤコブの手紙を読んでいて反省させられました。

「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」
(ヤコブへの手紙 3章13節)。

私たちが何かの意見を言ったり、主張したりするとき、そこには知恵があります。しかし、そうした意見の主張や、議論の中で、私は過ちを犯すことがあります。自分が知っているという自負が、時には人を高慢にさせ、相手の意見を尊重する余地がなくなることがあります。

そこでヤコブは、まず、その知識を自分自身の生活を通して示すように勧めます。そうすれば、人はその生き方を見て、真理について考えるようになるというのです。

さらにヤコブは語ります。
「しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。

上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」(同上 3章14~18節)。

議論をしたり、話をしたりする時、大切なことは、その話している内容や知識よりも、その人の態度なのでしょう。もし、ねたみや利己心があるなら、それは神の真理に逆らっていることになります。「これこそが正しいことだ」と言い張っているときにこそ、それがどこから出たものかに、注意を払う必要があります。

上からの知恵は、第一に純真で、更に温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。えこひいきがなく、見せかけがありません。  私自身、何かを話す時に、自分について吟味しなければならないようです。

第一に「純真」な動機から話しているだろうか? そして「温和」な態度を保っているだろうか? 更には、「優しく、従順」とあります。細かいことでいきり立たたず、主張のゴリ押しをしていないだろうか? 「憐れみと良い実」、相手の立場にたって、主にある結実を望んでいるだろうか?

「義の実」 つまり、正しさの実は、自分が正しいと思っていることをなんとしてでも押し通すことではなく、平和のうちにまかれて、平和をつくる人によってもたらされるのです。

私自身が、「平和」で支配されているか? 優しさに支配されているか? その言葉は、人を切り裂くようなものではなく、塩味のきいた憐れみ深いものになっているか?  いやはや・・・私の言葉には、相変わらずトゲがたくさんあります。しかし主によって砕かれ、変えていただき、この身をお献げしてゆければと願います。