中国、唐の時代、趙州従諗(じょうしゅう・じゅうしん)という禅僧と弟子との対話です。弟子は師に質問しました。「大難来せり。いかが回避せん」。
「大きな災難が来ました。どうしたら避けられますか?」という質問です。
従諗は答えます。 「あたかもよし」。 つまり、「それでよいではなないか。困難は受け止めなさい。くるものから逃げることなどできはしない。回避したいと悩むから苦しい。回避したいと思わなければ、悩むことは無い」と言うのです。
この「あたかもよし」から、「恰好よい」という言葉が生まれたそうです。何事にも動ぜず、「あたかもよし」として受けて止めて生きる姿勢をほめて、「格好良い」という言葉が生まれたというのです。ルックスやファッションではなく、何事をも受け止めてゆく生き方こそ、最高に「格好良い」というわけです。
「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」(ピリピ人への手紙4章5節)。
パウロは言います。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげなさい。それがあなた方が示すことのできる寛容さです。 これは、まさに「恰好良い」生き方です。
この書簡『ピリピ人への手紙』を書いていたパウロ自身、既に囚人の身でした。その中でこのようなメッセージを語っていたのです。実に「格好良い」のです。
ただし、パウロが、すべてを受け止め、感謝をささげるのには、それなりの理由がありました。単に逃れられないから、という理由ではありません。 「主は近い」という理由です。
イエス様はやがて戻って来られる。何がもっとも大切で、何が二義的なことであるかをわきまえて生活しなさい。これがパウロのメッセージです。
この世の物はどんな素晴らしい物でも、やがて失われます。しかしイエス様がもう一度来られる時、私たちは「失われることのない世界」に迎えられるのです。そのことを念頭に置いて生きるならば、私たちが何を第一に願うべきかが定まってきます。
私たちが今日、決して失われることのない、神様と神様の御言葉に生かされることを第一に祈り求めるならば、イエス様は人知ではとうてい測り知ることのできない神様の平安を、私たちの心と思いにお与え下さるのです。 これこそまさに「格好良い」生き方!!