ある方から、次のようなメッセージをご紹介いただきました。なるほど・・・ と思わされます。
「今日、ある方のお話をお聞きしました。それは、『ありがとうの反対語は何?』という話でした。『ありがたくない…なんだろう?』 私には浮かびませんでした。
ありがとうの反対語、それは、『あたりまえ』ではないか、という事でした。『あたりまえ』だと思うから、ありがたくない。
なるほどなぁ… 親子の関係で、親がしてくれるのは『あたりまえ』、そう思うと感謝の心もなくなる、というのです。奥が深いなぁと思いました。
『感謝をする』と口では簡単に言えますが、心からは思えていなかった気がしました。『あたりまえ』はないんだ、と心に留めて、謙虚にやっていきたいと思いました。」
(ここからは上のメッセージを受けた方のお話です)
「私も『感謝することが大切』なんて呪文のように唱えていましたが、『あたりまえ』が『ありがとう』の反対語なんてまったく思いつきませんでした。
『あたりまえ』。私の心にずっしりと突き刺さった言葉。今までは何気なく使ったり、よく思っていました。『親なんだから“あたりまえ“』『仕事して“あたりまえ“』『これぐらいしてもらって“あたりまえ“』
感謝しているつもりが、この『あたりまえ』によって打ち消されていることなど、全く気づきませんでした。『ありがとう』の反対語は『あたりまえ』。『あたりまえ』が活躍すると感謝の泉が枯れるらしい。」 (黄土倶楽部店長 沖洲真弓)
そのように考えますと、私たちはなんと多くの方々に支えられていることでしょう。これらはすべて「あたりまえ」のことではありません。
なんと多くの命によって支えられていることでしょう。今日食べたお米や野菜、果物、それぞれの命によって私は支えられています。これはけっして「あたりまえ」のことではありません。
何よりも、私たちが神様の子どもとして、神様の御言葉に生かされ、神様の約束に生かされていることは、けっして「あたりまえ」のことではありません。
そのためにイエス様は御自身の命を十字架にささげてくださり、私が味わうべき第二の死をご経験されたのです。私は日ごとにイエス様の十字架を、有り難きこととして受け止めさせていただかなければなりません。