グッド スイスの神学者・精神科医・牧師のルードルフ・ボーレンという教授、その最初の奥様は、心を病み、やがて自ら命を絶ってしまいました。

ボーレンは精神科医として、牧師として、なによりも夫として、最も身近にいる者として、誰よりも妻を守らねばならなかった者として、妻の死に向き合います。

教授は自分自身を責め続けました。やがて彼も心を病んでゆきます。今まで自分が学んできた学問は彼を救うことはありませんでした。自分の言葉は何の役にも立ちませんでした。

友人知人たちの優しい思いやりのある言葉でさえ、残念ながら、彼を救うことができませんでした。 人間から生まれ出た言葉はいずれも彼を救い出すことができなかったのです。

ところが・・・・苦悶の日々の中で、ボーレン教授は人間を超えた「神様の言葉」に救いを見出してゆきます。 彼はただ使徒信条を読み続けてゆきます。そして暗唱していったのです。

それは学問としての聖書の学びではなく、自分を救いうる唯一のお方、創造主なる神様からのお言葉をただただ受けとめてゆくという作業でした。彼はひたすらそれを読み続け、暗唱していったのです。

やがて彼は回復してゆきます。神様の言葉は彼を癒してゆきました。

後にボーレン教授は語ります。次のような内容です。
「私が救われたのは、『外からの言葉』によってであった。自分の言葉、学問の言葉、友人・知人の言葉でさえ、残念ながら『人間から出た言葉』は私を救わなかった。ただ、人間を超えた『外からの言葉』、そう『神の言葉』、それだけが私を救ったのだ」。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(ヨハネによる福音書1章1~4節)。

「言(ロゴス)」というギリシヤ語は、もともとギリシヤ人哲学者に用いられていました。彼らは、宇宙にあるすべての物は、形が存在する前に「考え(アイデア)」があったとします。その「考え」を「言(ロゴス)」と呼びました。

ヨハネは、さらに進んで、全ての物の背後には、「考え」だけでなく、考える「お方」がいたはずだと言うのです。「初めに、言(ロゴス)があった」というのは、すべての物の前に考える「お方」がおられると言うことです。

そしてその「お方」が全てをお造りになったというのです。 そのお方の言葉が今も私たちの心を体を新たにお造りくださるのです。