『みにくいアヒルの子』という童話があります。「みにくいアヒルの子」は生後しばらくすると、自分の存在に何か違和感を覚えます。兄弟にいじめられ、母親から冷たくされ、自分の居場所を失っていきます。
「自分は醜い、愛されていない」という思いから、アヒルは一人、旅に出ます。傷つき、寂しさに震える小さな魂は、彼を抱きしめてくれる親、一緒に寝てくれる親を求めました。
「大丈夫、怖くないよ、お前は私の子、なんてかわいいのだろう」という母親の優しい声、父親の頼もしい守りを求め続けたのです。
アヒルは、どこへ行けば、自分が愛されていることを知ることができるでしょう。どこへ行けば、自由に涙し、愛され、真の安らぎを得ることができるでしょう。
旅は続きます。旅の途中、アヒルは壊れた玩具のアヒルを見つけます。「この玩具が自分の親かもしれない!」 アヒルは信じてついて行きます。
しかし玩具には命がありませんから、アヒルの必要に応えることはできません。命のない物により頼むことの虚しさをアヒルは知るのです。
ところが、アヒルの旅はやがて終わりをつげます。白鳥の群れと出会うのです。美しい白鳥たちがやってきて、なんとアヒルを家族として迎えてくれたのです。
傷つき、弱り果てたアヒルは、そこで受け入れられ、癒され、慰められ、アヒルは彼らのこどもとして無条件に愛されたのです。
本当の親に出会ったアヒルは、ついに自分の親を探し当てました。しかし、それだけではありません。
彼は本当の自分を見つけることができたのです。自分は「白鳥の子」であることに気がつくのです。本当の親を見つけた子どもは、本当の自分を見つけることができたのです。
自分の中の「みにくいアヒルの子」 私たちの中にも、この「みにくいアヒルの子」がいたのかもしれません。無力で弱く、傷つきやすい小さな子どもがいたかもしれません。
「愛されたい、癒されたい、平安を得たい」と願いながら、旅する子どもが私たちの中にもいたかもしれません。
しかし今や、私たちの「みにくいアヒルの子」は本当の親に出会いました。そして、その親から新しい言葉を聞くのです。
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタイによる福音書 3章17節(新改訳))。
私たちは「神の子」としての自分を発見させていただくのです。