「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。」
(マタイによる福音書 25章1~4節)
イエス様はご自身のご再臨直前の教会の経験をご説明するために、この話をされました(『豊かな人生の秘訣』 305頁参照)。 ここには賢いおとめたちと愚かなおとめたちが出てきます。
彼女たちの賢さと愚かさの違いは何だったのでしょうか? そうです。予備の油を持っていたか、持っていなかったかの違いです。
では、賢いおとめたちは、たまたま壷に油を入れて持っていたのでしょうか?愚かなおとめたちは、その日にかぎって予備の油を忘れたのでしょうか?
イエス様は彼女たちを「賢い愚か」と性質で分けておられるところから・・・・ 賢いおとめたちは、常に予備の油を忘れずに用意する習慣があったと思われます。
逆に、愚かなおとめたちは、常日頃、油を忘れる習慣があったのだと思われます。そこには、賢い習慣と愚かな習慣があったのだと思われます。
では、それぞれの習慣をつくったものは何だったのでしょうか? それは、「油はやがて無くなる」ということの「心得」です。 「心得」とは「理解。事情を十分知った上で引き受けること。身につくこと。気をつけること。用心すること」という意味です。
賢いおとめたちは、油はいずれ無くなることを「心得」ていました。ですから、その対策として「予備の油を用意する」という習慣を身につけたのです。
一方愚かなおとめたちは、油はやがて無くなることを「知って」はいましたが、「心得」てはいませんでした。ですから「予備の油を用意する」という習慣が身につかなかったのです。
私たちも、終わりの時代、聖霊を日々いただかなければ、光が失われるということを「心得」えていなければなりません。 毎朝、イエス様と祈りのうちに交わりながら、聖書を読み、聖霊をいただきたいと思います。
「聖霊という大きな無限のたまものの中には、天のすべての資源が含まれている。神の恵みの富が、地上の人びとに流れないのは、神の側に何か制限があるためではない。喜んで受けさえするならば、だれでも聖霊に満たされるのである。」
(『豊かな人生の秘訣』 414、315頁)