あるところに、今にもつぶれそうになっている修道院がありました。 そこには修道院長と4人の修道士。誰もが70を越す高齢でした。 まさに、この修道院は滅びかけていたのです。
修道院は深い森に囲まれていましたが、その森には小さな小屋があって、近くの町に住むユダヤ教の教師がときおりやってきました。
修道院長はふと、こんなことを考えました。「森の小屋の教師に尋ねたら、修道院を救うための何か良い知恵を貸してもらえるかもしれない」。
修道院長がユダヤ教の教師を訪問すると、教師はただただ気の毒がるだけでした。
「お気持ちはよくわかります。 人々が心を失ってしまったのですね。
私の住む町でも同じです。 ユダヤ教の教会堂を訪れる者はひとりもいません。
私にはどんな助言も思いつきません。 ただ・・・たった一つ申し上げられることは、救い主はあなた方の中にいるということです」。
それから何ヶ月も年老いた修道士たちは「ユダヤの教師の言ったことはいったいどういう意味なのだろう」と考えあぐねたのです。
「やはり救い主は、修道院長のことだろうか?
ひょっとすると、トーマス修道士のことを指しているのか?
彼こそ神の道を歩む人だ。
まさか、エルレッド修道士のことではあるまい。
いや、皆に煙たがられているが、彼の言うことはいつも正しいではないか。
もしかしたらエルレッド修道士を指しているのかもしれない。
フィリップ修道士は、消極的で、いてもいなくてもわからないような人だ。
しかし、フィリップは助けを必要としていたとき、いつのまにかそばにいて手を差し伸べてくれるではないか。
もちろん、私を指していることはあるまい。
私はごくありふれた人間だ。でも、私自身が救い主の働きに召されているとしたら・・・」。
こうして一人一人が深く考えているうちに年老いた修道士たちは互いを、それは、それは大切にするようになりました。 すると、人々はこの修道院のあたりに何か特別な雰囲気が漂っているのを感じるようになりました。
5人の修道士たちが互いに敬い合うことによって、敬虔な雰囲気が生まれ、それがあたりに広がっていったのです。 そこには何か不思議な人をひきつける力が働いていました。 一度そこを訪れた人々は修道院にしばしば足を向けるようになりました。
そして、この特別な場所に友達をひっぱってくるようになりました。 その人たちもまた友達を連れてくるようになったのです。 修道院を訪れた若者たちは、年老いた修道士たちと少しずつ言葉を交わすようになりました。
しばらくすると、一人の若者が修道院に入りたいと言い出しました。 そして次々とおなじような若者が出てきました。
こうして2、3年すると、修道院は再び活気を取り戻したのです。 あのユダヤ教の教師の言葉は素晴らしい贈り物となりました。
おかげで修道院は再び、信仰の中心となり、人々の心のよりどころになったのでした。 聖霊の神様は私たちのうちに住んでくださいます。
「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。
この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。
神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。
こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。
この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。
そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。
これらは良いことであり、人々に有益です」(テトス3:5-8)。