以前私の尊敬している牧師から興味深いお話を伺いました。 それは次のような内容でした。
「聖書の中には忠実な人々が出てくる。毎朝忠実に宮に通い、お祈りを忘れない人がいる。その忠実な毎日の中で、ある日、神様との衝撃的な出会いを体験する。
大切なのは毎日の忠実な習慣、神様との交わりの習慣なのだ。それらの忠実な神様との習慣の中で、ある日、神様の大いなる御業を見るのだろう。
ただし、それらの忠実な習慣は、果たして彼らの強靭な意志力と絶えることのない強い信仰心の結果なのだろうか?それは彼らのたゆまぬ努力の結実なのだろうか?
いや、ひょっとすると、彼らは、そうせざるを得ないほどに飢え渇いていたのかもしれない。神様との交わりなしには、一日たりとも生きてゆくことができないほどに、霊的な欠乏を感じていたのかもしれない。
彼らは誰よりも自分の弱さを知っていたのかもしれない。私たちはそれほどまでに、霊的な必要を感じているだろうか?それほどまでに自分の弱さに気がついているだろうか?」
さらにお話は、イチローの話題になりました。
「イチローという野球選手がいるが、試合の日、彼の一日のスケジュールは殆ど変わらないという。朝起きたときから、球場に向かうまでのスケジュールはすべて計算されていて、それを一つ一つ忠実にこなしてゆく。
忠実な行為の積み重ねの中で、彼はバッターボックスに向かう。いつもと寸分たがわず、あの一連の仕草を行い、球を待つ。それはまるで宗教儀式を取り仕切る祭司のようだ。
これらのスケジュールを毎日欠かさず続けるには、確かに誰にも勝る強い意志力と向上心、野球に対する強烈な愛情が必要なのだと思う。
しかし、同時にイチローは自分の弱さを十分に心得ているのではないだろうか。十分なストレッチ(柔軟体操)をしなければ自分の体は硬くなりやすく、怪我につながること、小さなスケジュールの一つでもおろそかにすれば、それはやがて自分の生活を変えてしまい、やがては野球人生全てを変えてしまう。そのことを誰よりもイチロー選手は良くわきまえているのではないだろうか」。
私は果たして、自分の弱さをそこまでわきまえているだろうか?反省させられました。毎朝、聖書や証の書を読まずして一日を始めることがどれ程危険なことか?小さな習慣をおろそかにすることが、自分の人生を決定付けることにどこまで気がついているのか?それらをもう一度強く、考えさせられました。