河合隼雄先生(京都大学名誉教授、心理学者、元文化庁長官)の本に次のような事例が載っていました。
「幼稚園の子どもで言葉がよく話せないということで、母親がその子を連れて相談に来られた。知能が別に劣っているわけでもないのに、言葉が極端におくれている。よく話を聞いてみると、その母親は、子どもを『自立』させることが大切だと思い、できる限り自分から離すようにして子どもを育てたとのことである。夜寝るときもできるだけ添い寝をしないようにして、一人で寝かせるようにすると、はじめのうちは泣いていたが、だんだん泣かなくなり、一人でさっと寝にゆくようになったので、親戚の人たちからも感心されていた、というのである」(河合隼雄『心の処方箋』)。
著者はこの子の「自立」について、「それは見せかけの『自立』で、本来の『自立』ではない。辛抱して一人で行動しているだけであり、そこから言葉の障害が生じているのではないか」と判断しました。
そのことが母親に告げられ、母親が子どもの接近を許します。すると今までの分を取り返すほどに子どもは母親に甘えてきました。しかもその中で、言葉は急激に進歩して、普通の子どもたちに追いつくことができたのです。
この事例の中で考えられることは、「自立」とは、十分な「依存」の裏打ちがあってこそ、そこから生まれて出てくるものではないか、ということです。以前に『甘えの構造』という本がありましたが、同様なことが書かれていました。一時期、十分に「甘える」期間を過ごした子どもは早く「自立」することができる、といった内容が書かれていたと思います。
つまり、「自立」といっても、それは「依存」と対立するもの、「依存」のないことを意味するのではなく、「依存」の中から生じ、「依存」の中に成立するものと考えられるのです。
そもそも、私たちは、何かに「依存」しながら生かされています。両親や、恩師、また数知れないほど多くの方々のお助けの中で生かされています。そのように考えますと、「自立」とは、自分がどれほど多くの人や物に「依存」しながら生かされているかを発見し、それらを感謝して生きることなのではないでしょうか。
「だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(ローマ人への手紙 11章35、36節)。
私たちはとかく、「自分が何かをしたから、このようになった」と考えがちです。しかし、私たちが何かができたのは、実に神様に支えられ、神様に「依存」しながらの話です。多くの方々の助けと支えがあっての話です。
クリスチャンとして「自立」している人とは? それは、自分がどれほど、神様に「依存」しているかを自覚している人、多くの人々の助けと祈りの中で支えられていることを知っている人のことなのだと思います。平たく言えば、それは、神様と人様のおかげ様で生かされている人、そのことに感謝のできる人です。