セブンスデー・アドベンチスト教団の総理をされた東海林牧師が、以前、次のようなお話を聞かせてくれました。
東海林先生が牧師に召されて最初の頃のお話です。安息日の午後、兼牧していた集会所のお礼拝を終えた帰りの道でした。
若き牧師は、これから解決しなければならない幾つかの牧会上の課題を思いめぐらせながら車を走らせておられました。
サンセットが過ぎ、先生は何気なく車のラジオのスイッチを入れました。すると・・・
「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」(マタイによる福音書 14章27節) との御言葉が聞こえてきました。
驚いた東海林先生はすぐに車をわきに止めて、その放送に聞き入ったそうです。流れていたのは太平洋放送で、キリスト教のラジオメッセージでした。
そのときの先生の心境にあまりにもピッタリ合った御言葉に、先生は神様の導きを感じざるを得なかったそうです。東海林先生は、この経験を振り返ってこのようにお話をされました。
「あの時、私がスイッチを入れようが入れまいが、ラジオの放送は流れていました。しかし、もし私がラジオのスイッチを入れなかったら、あのメッセージは聞くことができなかったでしょう。
主の導きの中、ラジオのスイッチを入れることができたので、私は神様からのメッセージをいただくことができたのです。同じように神様は、常に私たちに向けてメッセージをお与えになっています。
それにもかかわらず私たちが、心を静めて、主の御言葉に耳を傾けようとしないならば、ひょっとすると、聴くべき主のメッセージを聞き逃しているかもしれません。
『静まって、わたしこそ神であることを知れ』(詩篇 46篇10節 口語訳)。
『力を捨てよ、知れ、わたしは神』(同 46篇11節 新共同訳)。
毎日の生活が忙しければ忙しいほど、心を静めて主の御言葉を聴く時間を大切にしたいと思います」。
「誘惑の嵐が迫り、はげしいいなづまがひらめき、波がわれわれの上におおいかぶさるとき、われわれは助けてくださることのできるおかたがおられることを忘れて、自分ひとりで嵐と戦う。
望みが失われていまにも滅びそうになるまで、われわれは自分自身の力にたよる。そしてそれからイエスのことを思い出す。救ってくださいとイエスに呼び求めるとき、その叫びは無駄にならない。
イエスは、われわれの不信と自信を悲しく思って責められるが、必要な助けをお与えにならないことは決してない。陸の上でも、海の上でも、心のうちに救い主を持っているなら、恐れる必要はない。
救い主に対する生きた信仰によって、人生の海はおだやかになり、主が最善とごらんになる方法で、われわれは危険から救われるのである」(『各時代の希望(中巻)』 60頁)。