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2007年6月 第247号                                         
       節目から節目へ
  
             東京中央教会長老 熊谷幸子

 恵みの雨を受け緑を重ねながら揺れる木々の、わけても竹の美しさは格別です。筍として食卓にのぼり損ねた若竹のまっすぐに伸びる様も、慈雨の晴れ間、竹林を吹き抜ける風の音も、この季節ならではの風情です。
 今も敬愛してやまない植物学者、牧野富太郎博士の著書によれば、数多くの竹の「節」は、すなわち「 (*注 下記ご参照) 」(ヨウ)とあり、漢和辞典にもないこの字のほうが、わが身の成長に何がしかの約束を課しているようで興味深く思われます。もし、のっぺりとして節目がなければ容易に祈れたり割れたりしてしまうでしょう。
 また、節と節の間は常に「中空」で、この空っぽの中空があればこそ、竹は風に抵抗してしなうこともできるのです。つまり竹の祈れそうで祈れない、倒れそうで倒れない、牧野博士によれば「柔に似て柔ならず、剛に見えて剛ならず」の、しなやかな強さの秘密は、「空」と「節]が相互に支えあっているところにあり、さらには、縦横に交錯して張りめぐらされた地下茎も、大きな影の力を添えているのです。そのうえ竹は人手によって伐り出されたあとも、釣り竿や竹細工、尺八や笛、筆の軸にまで変身して、人間を楽しませてくれます。千歳の松に比べ、竹は万代。まっすぐな心と貞節を象徴する竹を祝い事に用いた古人の知恵はいかにもとうなずけます。

 振り返れば私たちの人生にも、なんと多くの節目が備えられていることでしょう。しかも記憶に残っているのはこの「節目」の出来事であって「中空」ではありません。人生でいえば、「中空」とは穏やかで何事もなかった平凡な月日なのかもしれません。けれどこの中空の上に中空を重ねて成長するためには、どうしてもこの節目が必要なのです。喜びやときめきの節目もあるでしょうが、痛みを伴う節目のほうがはるかに多いのは、古い自分を脱ぎ捨て、新しい衣を着るための訓練が繰り返し必要だからではないでしょうか。
 改めて気づくのは、この節目でしか出会えなかったのが、神様であり、いま本当に心通わせることのできる人たちであること。生まれ変わったという節目。赦しあったという節目...。乗り越えるごといただいたのは、成長のしるしであり、新たな誕生を約束する恵みのギフトでした

 「キリストなるかしらから出て、からだ全体は、節という節、筋という筋によって強められ、結び合わされ、神に育てられて成長していく」
 コロサイ人に送ったパウロの手紙(2章)通り、節目という節目に神様は確かにご臨在されていました。であればこそ、一見何事もなきに見える中空も、節目のためのエネルギーを蓄える大切な時だったのですね。一本の樹木も一羽の鳥も、聖書の副読本となる日本の豊かな自然。竹を割ったような性格にあやかって、創造主のみ業に目を見張り、初夏の大地にみなぎる生命の音に耳を傾け、瞑想と感謝の静寂なひとときを持ちたい六月、早くも今年の半ばです。

(*注)上半分;竹(タケカンムリ、下半分;約。
     パソコン上、活字がなくご容赦ください





                                                                                                      






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