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2006年9月 第238号                                         
       
追悼を思う

                
         東日本教区長 千先 勉                            
 わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。(ヨブ1:20)。
 人に定まったものがあるとしたら、今、生かされているという事実と、必ず生きることをやめなければならない時が来るということです。しかも、3万日少々の日々を数えるに過ぎません。自分の死は自分で自覚できないまま迎えるのが常です。
 人はいつからこの忌まわしい死の自覚を持ったのでしょう。明らかにそれは、愛する者を失ったときです。死は生きている者の自覚です。愛すれば愛するほど死は残酷です。このいとしさは自分の生きていることさえ飲み込むほど切ないものです。
 夏目漱石は愛する娘を失ったとき、「死を生に変える努力でなければ、全ての事は空しい」と叫びました。愛してやまないものを失ってみなければ知りえないこと、悟りえないことがあります。
 
自分の肉親ばかりでなく、信仰の友など、かけがえのない愛情で結ばれて、素晴らしい共通体験を重ねた人を送らなければいけない、残された者の何にも勝る宝は‘思い出’です。月日とともにその思い出は純化され、ますます輝き、励ましてくれます。思い出は命そのものです。そして、何か生きている者にとって一番大切で、価値あるものかを知らしめてくれるのです。限りある命の中で今、生かされていることの尊さとともに、人は人の心の中に生きつづけるものなのだと。
 命を生き、人の心の中に純化して生きているものなのだということが解ると、神に覚えられていることが、この上ないあの十字架まで耐えて示してくださった愛が注がれていることが、どんなに素晴らしいことかが解るのです。
 神の心の中に、思いの中に刻まれていることの価値と特権は計り知れません。神は愛のみ手をもって復活させることの出来る力の主だからです。主のなさることは愛の業、祝福以外ないからです。神無き追悼は悲しく空しい、しかし私たちは追悼によってなお強く主の立てられる希望に目を注ぐ。
 わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。(ヨブ42: 2

                                                                                                      






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