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2006年7月 第236号
「福音、1844年、裁き」 一安息日学校聖書研究 教課ガイドー 東京中央教会牧師 長池 明夫 今期の聖書研究は「福音、1844年、裁き」と題して、現在進行中の天上での裁き、すなわち再臨前審判について学びます。 かつて私が救道中の頃でした。「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」(ヘブル9 :27) この御言葉を読んで、極めて厳粛な気持ちにさせられたことがありました。確かに、ここには人は皆裁かれることが明確に記されてあります。しかしながら、この「裁き」とは恐いものとしてよりも、むしろ救いの手段として記されてあることを銘記しなければならないでありましょう。例えば、ダニエル書に天上での裁きの様子が記されてある所があります。(ダニエル7:9〜13) ここには、天使たちにかしずかれた神が裁きの座に就かれた様子が描写されています,そして、その場面は「かずかずの書き物」が開かれ、それらを通して裁きがなされていくスリリングな所です。しかし、ここで肝心なことは、その裁きの座に「人の子のような者」、すなわちキリストが大祭司として共に居て下さることであります。そうであれば、天上での神の裁きというのは自ずと、その性質や目的は明らかではないでしょうか。大祭司というのは、そもそも「贖罪の日」に至聖所で罪の執り成しをした、いわば弁護士のような存在です。それも、その大祭司を任命なさったのは紛れもない神御自身なのです。ですから、1844年に始まったとされる天上での裁き、すなわち再臨前審判の性質と目的とは、私たちの罪を暴き糾弾することにあるのではなく、むしろ私たちをどのように救い上げるかが裁きの焦点になるのです。 私たちは自分の信仰の中身や品性を見つめていく時、自分の救いに関しては確信を持てなくなるのではないでしょうか。しかし、キリストの十字架のみわざ、また天の至聖所での大祭司としてのキリストの執り成しのみわざを仰いでいく時、私たちは恐れる必要がなくなるのです。この世の歴史には多くの不条理があり、また私たちの人生にも沢山の間尺に合わないことが起こります。誠実に生きていれば報いられるかと言えば、必ずしもそうではない現実があり、むしろ悪が栄えてしまう場合も往々にしてあるのです。ですから裁きとは、そのような矛盾に、神の介入を通して、矛盾のない答えが与えられることなのです。 ここに一つの御言葉があります。ヨハネの黙示録19: 1、2。この御言葉は、天上での神の裁きがいかに素晴らしかったかを賛美している歌声であります。すなわち、天上の御座でなされた裁きは、そのことを賛美せずにはいられない内容だったからであります。おそらくその内容とは、単に正しいだけではなく、そこには溢れるような神の愛が湛えられていたからではなかったでしょうか。天上での裁きをなさるのは愛の神であり、その傍らには大祭司キリストが共に居て下さるのです。そして、そのキリストは私たちの罪の蹟いのために十字架におかかりになったのです。だからこそ、私たちは信頼し、安心して、この天上の裁きを仰ぐことができるのだという、福音の恵みに与ることができるのです。 |