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2006年1月 第230号                                         
 
  神 の 家 族
        

         
           東京中央教会牧師 長池 明夫    
     
 明けましておめでとうございます。
 新しい年をどのような抱負を持ってお迎えになられているでしょうか。昨今は未曽有の事件が頻発し、「家庭のない家族」「児童虐待」「ひきこもり」「ニート」といった、今までに聞くことのなかった用語をよく耳にするようになりました。近年私どもの日常生活にも無機質なものが増え、血の通った「関係]が極めて希薄になってしまったことが原因しているとも言われています。そのような世の中の風潮に与しながら、私たちも神の家族としての教会生活を営んでいかなければなりません。
 かつてボンヘッファーという神学者はこのようなことを言いました。「教会においても家庭にあっても、交わりの中で人が負うべき最優先の奉仕は他者の言葉に耳を傾けるということである。神への愛は、われわれが神の御言葉を聞くことから始まるように、他者への愛も、われわれが他者の言葉に耳を傾けて聞くことから始まるのである。しかしわれわれは得てして、語ることよりも胸襟を開いて聞くことの方がより大きな奉仕であることを忘れているのである。教会の兄弟姉妹たちも家族も、そして世の中の多くの人たちも、聞いてくれる耳を求めている。」(『共に生きる』)そしてさらに教会においても家庭でも、クリスチャンたちがしなければならない奉仕について順位をつけて記しています。@言葉を慎む、A謙虚であること、B他者に耳を傾けて聞くこと、C積極的な助力、D重荷を分かち合うこと、E御言葉の証し
 しかしながらこれらの奉仕の事柄については、むしろCDEこそが最優先の課題のように思われがちですが、ボンヘッファーはまた違った視点で捉えています。すなわち、教会の尊い奉仕のわざは、まず前提として「慎み」「謙虚」「傾聴」といった肝心なものがなくては成り立たない、クリスチャンの奉仕というのは神のわざによる人と人との関係づくりであると考えていたのです。
 ヨハネは、福音書に姦淫の場で捕えられた女の話を記しています。(ヨハネ8:1〜11)その時、この女をぐるりと取り囲む人々は当然のごとく、鋭い裁きの眼光を向け、今にも殺しかねない状況でありました。しかしながら、そこでキリストがなさったことは、身をかがめて指で地面に何かを書きながら、「あなたがたの中で罪のない者がまずこの女に石を投げつけるがよい」とおっしゃることだったのです。その結果、群衆は一人去り二人去りしてその場にいなくなったのですが、そこでその女に「あなたを罰する者はなかったのか」と問いかけながら、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」とおっしゃったのでありました。その時、この女は救い主との決定的な出会いの体験をし、人生の価値観が大きく変わったのです。まさに「キリストとの関係」によって生かされたのでありました。また、エレン・ホワイトも、神の家族という関係の中で信仰が豊かに育つために必要なことを提言しておられます。それは、@キリストを教会の、家族の、私たちの心の中心にすること、A私たちは同じ主を信じ、同じ霊と交わり、同じキリストに従っている。すなわちキリストによって思いを一つにすること、B自己を主張していくことではなく分かち合うこと、C私たちは人との違いに目を向ける傾向が強いのだが、むしろその違いによって何によって一致協力できるかを考えていくべきこと、D私たちには何よりも一つの模範があり、キリストがどのようにお考えになられ、行動なさったかということを貴重な目安とすること、Eキリストが何よりも祈るということを示してくださったことを模範にして、私たちも全ての課題においてまず祈ること…等でありました。
 先のボンヘッファーが著書に記しています。「関係が生きる時、まさに人は生かされ、生きるのだ」(同上) 本年もまず神と私だちとの関係が生かされて、はじめて家族や隣人との関係も生かされることを覚えながら、「神の家族」としての教会生活を喜びをもって謳歌していきましょう。
                                                                                                      






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