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2005年6月 第222号
「超えさせない神の御力」 元東京中央教会牧師 鴨田 増一 主の御名を崇めます。 東京中央教会の皆様、お元気にお過ごしでしょうか? 5月の陽光を受け、私のいる部屋の窓の向こうには、緑とサツキの薄紅が織り成すように広がっています。薫風,に運ばれてくる鳥たちのさえずり。ここのウグイスは、まさしく、「ホー・ホチュピチュ」と鳴いています。 そう、私は今、ホスピスで過ごしています。ここ神戸アドベンチスト病院の恵まれた自然環境、至れり尽くせりの医師とナースの手厚い看護、そして私のことを億えていて下さる皆様の篤いお祈りと、寄せ書きのお励ましの言葉に支えられ、ただ感謝と瞑想、すべてを主にお委ねして生きる平安のうちに日々を送っています。 堪え難い吐き気と腰痛に襲われ救急車で病院に運ばれたのは、3月2日夜半のこと。点滴治療を続けたものの吐き気は治まらず、衰弱もひどくなる一方で、そんな析、家内の親戚の看護師が神戸アドベンチスト病院に転院することを強く勧めてくれ、3月14目早建家内が病院をお尋ねしたところ、院長の山形謙二先生のご即断で翌15目ここに移ることがで きました。 ガンは疼痛との闘いです。私の場合、初期の痛みとはいえ、それでもただ絶え絶えに祈るほか何もできなかったのですが、その私に“もしあなたが求めるならば、三位一体の神が助け、その力があなたをいかなる危険からも款って下さるのである。”という「祈りのガイド(N0.2:8ページ)のこの励ましは、実に力強い応答でした。 ホスピスに移って以来、痛みは次第に絶妙にコントロールされ、吐き気も治まり、食欲も回復して、現在はほぼ普通にいただいております。 ガンという病を得て痛感したことは、「時」に対する認識の大きな変化でした。 今していることが、明日にはできないかもしれない、今読んでいるこの本も明日には読めず、この会話も瞑想すらもできないかもしれない。そう思う時、この刻一刻がいかに尊いことか、そしてこの凝縮した「時」の中にこそ、神様がご臨在なさっていることを強く感じないではおれません。 しかもこの思いを、私はどこかで確かに経験していました。 そうです。60年前の昭和20年、あの敗戦の年、何と6月5日になって、大学生だった私にも、甲種合格の召集令状!が舞い込み、その日を境に、私は蓄音機にしがみつくようにして、フルトベングラー指揮のベートーベン第5と第6シンフォニーのレコードに聴き入っていたのでした。 「この感動を、ここより先の日々を奪い取らないで」と、若い生命の淵でどれほど真剣に祈り求めたことでしょう。明日をも知れぬわが生命の道を、その時から今日に至るまで、神様は奇しきご計團と愛の光をもって照らし導かれていたのです。 今再び生命の淵で、私は聖書にしがみつき、そのみ言に慰められ、励まされています。特にエレミヤ5章22節、昔から心を捉えて離さなかったこの聖句に、新たな感動を覚え、毎日手で探りながら読み、指でなぞりながら瞑想しています。 “あなたがたはわたしを恐れないのか、 わたしの前におののかないのか。 わたしは砂を置いて海の境とし、 これを永遠の限界として、 越えることができないようにした 波はさかまいても、勝つことはできない 鳴りわたっても これを越えることはできない。” ガン細胞は、私の体内でうごめいています。叫び狂い、鳴りわたっています。しかし神様は、永遠の限界を置いて、逆巻いても、鳴りわたっても、これより先へは越えないようにとお守りになっていらっしやる。この慰めと必要、特権に与れる恵みを、私はどんな言葉をもって表せましょうか。 感謝と壊想を込めて、「はらじゅくニユースjに寄稿できました喜びは格別です。 今私は、お一人お一人のお顔を思い出しながら、皆様とはいつに日か必ず再会できるという確言こ支えられ、、もう一度、心からのありがとうをお伝え申し上げます。 連載・第6回 聖書のなかの讃美歌(3) 及川 律 イエス・キリストが実際にどんな讃美歌を歌っていたのか。これはだれにとっても大変興味深いところです。福音書には弟子たちが讃美歌を歌った場面が記されていますから、キリストも一緒に歌っていたと考えるのが自然でしょう。最後の晩餐のあと、一同が讃美をしながらオリブ山に向かった、という記述も、彼らがごく自然に毎日の生活で讃美をしていたことをうかがわせます。では、どういう讃美だったのでしょうか。おそらく旧約時代から歌い継がれていたユダヤの讃美歌や、詩編だったと思われます。もしかすると、そういったものを自分たちなりに替え歌にしていたかもしれません。残念ながら、聖書にはこれ以上具体的な情報を見いだすことはできません。 一方、福音書以外の新約聖書のなかには、歌の歌詞と思われる箇所がいくつかあります。 ・ピリピ 2:6〜12 ・ローマ 11:36 ・コリント第二 11:31 ・ピリピ 4 :20 ・テモテ第一 1:17 初代教会では、このようなフレーズを、集まった人全員で声をそろえて唱えたり歌ったりしたのでしょう。 黙示録にも、歌がいくつか出てきます。黙示録を生み出したとされるクリスチャンのグループも儀式を重んじ、独特の礼拝形式をもっていたとされていますから、そのなかでこれらのフレーズが歌われていたのでしょう。 ・黙示録 5:9、12、13 ・黙示録 7:10、12 ・黙示録 19:4、6〜9 新約聖書のこういった詩を見ても、当時の礼拝の中心はキリストであり、神への感謝と賞讃がいろいろな形で表現されてことがわかります。わたしたちの礼拝と讃美を考え直す時に、大変参考になるのではないでしょうか。 当時のクリスチャンをとりまく社会には、詩稿のようなユダヤの歌と、それとは全く違ったヘレニズム的な歌とがあったと考えられています。黙示録や福音書が書かれた紀元1世紀末ごろは、一部のクリスチャンがU日約から続いてきたユダヤの伝続から距離を置き始め、地中海全体を含むヘレニズム文化のなかに飛び出していった時期でもありました。ここにキリスト教は、世界宗教としての一歩を踏み出すことになるのです。 (つづく) |