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2005年1月 第217号                                         
 「新しい稔り」
 
         
    東京中央教会牧師 長池 明夫    
     
 明けましておめでとうございます。年が改まりますと、何だか私たちの心まで改まったような気がしてくるから不思議なものです。昨年の暮れからたいして時間は経っていないのですが、私たちの思いはすでに新しくされ希望が大きく膨らんでいます。
 皆様はお正月をいかがお過ごしになられているでしょうか。きっと充実したお正月を楽しんでおられることと思います。ただ昨今はお正月の行事もスタイルが大きく様変わりしているといわれていますが、私の幼い頃にはお正月といえば、まず年賀状、年始回りにお年玉、獅子舞(ししまい)があり、百人一首やカルタに凧揚げ、双六(すごろく)と定番のものではありましたが、切っても切り離せない風物詩とでもいうべきものがありました。
 かつて、これらのお正月の行事はどこから由来しているのかを調べたことがありましたが、日本最古の書物とされる「古事記」や「日本書紀」にも、充分なことは説明されていないようです。ただ「日本書紀」に神武天皇が正月に即位した、その年を正月から日本元年とする記事があり、それを糸口として、歴史家たちは推理しながら色々な仮説を唱えてきました。つまり、正月行事の大半のものは天皇が即位しで新しい年に改まったことをお祝いしたことと関係があるのではないかと推理するのです。例えば、(いにしえ)に天皇が新しく即位すると、天皇をはじめとして宮人たちがそのことを祝って歌を詠みました。このできごとが後に「百人一首」や「カルタ」を正月に楽しむというスタイルに定着していったのではないか。また年賀状の交換も元々は天皇が即位したことの挨拶状が庶民の手によって大衆化されたものであり、年始回りも神社への参拝も皆、天皇が新しく即位したときに行われた行事と密接な関係があるのだというのです。
 しかし、ここからもう少し踏み込んで推理すれば、「おせち料理」(この慣習もルーツがわからない)も聖書の過越しの食事と比べるとわかりやすくなりますし、「屠蘇(とそ)」も字面(じづら)で判断すると、何かを屠ることと蘇ることとは同義として表記されています。そういえば、過越しの中心は子羊を屠ることと玄関の鴨居にその血を塗ることで罪科は過ぎ去り、蘇ることができるというものでした。このように想像していくと、わが国の新年の行事や様々な慣習のルーツは聖書?と、つい結びつけて考えたくなります。
 聖書で「お正月」というのは新しい王の即位を喜び祝うことではなく、神がもたらしてくださる新しい稔りを祝い喜ぶことです(詩篇65:9〜11口語訳)。私たちに新しい稔りを与えてくださる力は上から来ます。キリストに触れ、交わることを通して変えられ成長させられ、稔りがもたらされていくのです。そしてキリストと交わるためには、キリストが語ってくださることに耳を傾け、それに対して応答する祈りが不可欠です。またキリストを知り、交わるためには、福音書のキリストの御言葉を瞑想することと、聖霊との対話の祈りが必要となりますし、そのことは確実に私たちの霊的喜びとなっていくのです。キリストの御言葉と対話の祈りを通しての個人的感化こそが、私たちに信仰者としての稔りをいただく唯一の望みではないでしょうか。私たちは自分の力で稔りをもたらすことは不可能でありましょう。しかしキリストのもとに自分を置き、交わりを日々続けていくことはできます。今年一年このことを続けさせていただき、キリストにあって共に成長し、豊かな稔りをいただく年にしたいものです。






連載・第1回  聖書の楽器(1)
 管楽器

                       及川 律

 創世記4章21節にユバルという人物が、カインの子孫として記録されています。「彼は、琴や笛を執るすべての者の先祖となった」とあります。彼は、特にそういう楽器を発明する才能に長けていたのでしょう 考古学的には、古代イスラエルの発掘からは、あまり楽器は出土していないようですが 上を焼いて作った笛などが時々出土しています。弦楽器は、木製であったことと、弦が腐ってしまい残っていないことから、当時の斤楽を推測する材料としては不十分ですが、土の笛は、穴の位置や大きさから、当特使われていた音階を再現することができます。いずれにしても、エジプトや、パレスチナの周辺の民族と同じ楽器を使っていたことがわかっていますので、音楽も似通ったものであったと推測されます。特に、エジプトを脱出した時にエジプトの宮廷の楽器と音楽を持ち出した可能性が高いので、以後のイスラエルの神殿の行楽も、エジプトの宮廷で用いられていたものに近かったのではないかと考えられています
 当時のイスラエルの民が、自分たちの音楽と他の民族の音楽をどの程度区別していたかは、定かではありませんが、楽器は同じものを使っていたようです。一般にラッパと訳されている楽器は2種類あり、一つは羊や牛の角のラッパ(ショファー)がありました、音はそれほど大きいものではなく、やわらかいクラリネットやフルートの音に近い音色が出せるものでした。これは時刻を知らせる合図や.、集会の合図に用いていたようです。エリコの城壁の周りを囲んで吹いたのもこのラッパでした。もう一つは金属製のラッパで、エジプトで実物が出土していますが、銀、真鎗(しんちゅう)、金などを叩いて作ったようです。これは、軍隊が戦いの合図に用いていたと考えられています。その他に、現在のオーボエやチャルメラのようにダブルリード(リードを二つ合わせて作った歌口)を持った楽器がありました。
 現在でも、中近東にはこの種の楽器が多数残っており、オーボエなどとは比べものにならないほど大きな音が出ます。屋外での使用にも十分な音量があります。聖所の儀式で、ドラやこの種の楽器を数回も使っていたとすると、ものすごい音量、迫力であったのではないでしょうか。横笛や縦笛の類もあったようですが、聖書にははっきりとは書かれていません。  (次号に続く)
                                                                                                      






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