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2004年12月 第216号                                         
 新潟中越地震−被災地を訪れて
 
         
    (特活)ADRA JAPN事業部長 橋本 笙子    
     
 10月31日、教会バザーが終わった夜、三育フーズからの5,000食の玄米粥、全国の教会からの支援物資を2 t トラック2台に積み、小千谷に出発しました。被災地に近づくにつれ、崩れた道路、つぶれた家屋、倒れた電信柱…ライフライン(水道、ガス、電気)は復旧しておらず、また余震の多さから、夜になると車の中で寝ている家族が多いことに驚きました。2日間に5ヵ所で炊き出し(玄米粥、野菜汁)、支援物資の配布をおこないました。また、被災された教会員の訪問、また安否確認をおこなったのです。
 出発前、三育学院から「学生の実家が小千谷で被災し、避難所にいるらしいが連絡がとれないので、可能だったら会ってきてほしい。」と連絡がありました。小千谷東中学に避難しているということでしたが、その避難所は体育館の損傷が激しく、校庭にテントを張っているという状態でした。私たちが行ったときには約500人の避難者がいるということで、見つけることができるかどうか…心の中で祈りながら避難所を訪問しました。最初に避難所の本部(ブルーシートをかけただけのテント)に案内してもらい、できたばかりという避難所の名簿を見せてもらうことにしました。手書きの名簿を開きながら「○○さんを探しているのですが…」というと案内してくれた人が「えっ、おまえのことじやないか!」と名簿を持っている人を指差したのです。間違いなく、娘さんが三育学院に行っているということでした。 この方は「自分の家はだめになってしまったけど、最後の1人がこの避難所をでるまで自分も残ります。」と話しておられました。自分も家族も大変なときなのに、人のために働く姿に心うたれました。私たちはご夫妻を囲み、神様の導きを祈ったのです。

 あれから1ケ月、私は11月30日に小千谷市を訪れました。通行止めだった関越自動車も既に全線開通していましたが、中央分離帯や路肩の崩れているところもまだあるような状態です。小千谷市はほとんどの場所でライフラインが復旧して、街に活気を感じました。ADRAでは、11月6日から高齢者施設内にある避難所を担当し、高齢者や介護を必要としている方々のお世話をしてきました。食事、トイレの介助、あるときには話し相手に…。その避難所が11月末日をもって行政の指導により閉鎖、残っていた避難者は他の避難所に移ることになりました。高齢者の方が「ありがとう。ありがとう。」と何度も何度も繰り返して言ってくださいました。施設の方が、「前の地震のときには(1964年)、誰かが助けてくれるなんてことがなかったから、高齢者の方はそのときのことを良く覚えているから、すごく嬉しいのだと思いますよ。」と話してくださいました。残っていた避難者が引っ越した先の避難所は、建物も古く、バリアフリーではありません。仮設住宅の建設は予定より遅れています。小千谷は一晩に1mも積もるといわれる豪雪地帯です。外見上の復興は進んでいても、元の生活に戻るには、まだまだ時間がかかります。どうか1日も早く、元の生活に戻ることができますように、みなさんの祈りのうちに加えていただければ幸いです。

                                                                                                      






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