新年おめでとうございます。皆様には本年も一層輝く年でありますようお祈り申し上げます。
私は年が明けると決まって思い浮かべる聖句がいくつかあります。その一つは「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい」(創世記2:16)という聖句です。今、私たちにはほとんど手つかずの一年が目の前に横たわっています。そして、神様はその全てを「心のままに取って食べてよろしい!」このように祝福に満ちた招きを下さっているのです。ですから、皆様ももっと、今年はどのような年にしたいか、今、夢を大きくふくらませていらっしゃるのではないでしょうか。
しかし、この神様の招きは、私たちにとって一年を自由に気ままに過ごしてよいということではなく、今年も聖書の御言葉の園へ誘って下さっている言葉に違いありません。ですから、日ごとに御言葉の森へ分け入り、園の木の実によって励まされ、豊かに養われたいものだと思います。
とは言っても、私たちは時として、つらい局面にぶつかってしまったり、重荷を感じて喘ぐことだってあるかも知れません。そして、そのような時、私たちはしばしば、今背負っている現実を捨てて、どこかへ逃げ出したくなってしまうのではないでしょうか。しかし、たとえそのような現実にからめ取られても、全ては神様の御心の内にあって、御手の上に置かれているということを忘れないようにしたいものです。
かつてアダムとエヴァは神様の御顔を避けてエデンの園の木の間に身を隠しました。そして私たちも同じように、時として「自己」という木陰に隠れてしまいたいと思う時がないでしょうか。しかし私たちにとって一等優れた隠れ場所があるとしたら、それはやはり、神様ご自身の中に逃げ込むことではないでしょうか。つまり、祈りの中に、御言葉の中に、讃美の中に、礼拝の中にです。
昔、あるクリスチャンの方がこのような歌を詠まれたそうです。「神とともに行けば険しき山坂ものどかに越えん御手にすがりて」。 この信仰者にとって現実の険しい山坂から逃避することは、その険しい場所でご臨在下さる神様をいつも信頼し共に歩んでいくことでありました。ですから、どんなに人生が険しく見えても、のどかに越えていくことができるのです。
私は思うのですが、神様が共にいて下さらなければ本当の幸福はありません。また、神様が共にいて下さらなければ、どのような不幸をも耐えていくことはできません。そして、神様が共にいて下さる時、人生のどのような境遇にも耐えることができて、ついには心から神様を讃美することができるようになっていくのではないでしょうか。
かつて、二人の弟子がエルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ向かっておりました。そしてその時、いっさいの出来事について、互いに語り合い論じ合っていたということが福音書に記されています。そして私たちも、今年一年いっさいの出来事について、互いに語り合い論じ合っていくことでありましょう。時に神様と、また兄弟姉妹たちと、そして自問自答というかたちで……。しかし御言葉にはこのように記されています。「語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた」(ルカ24:15)。 主みずから私たちの方へ近づいてきて、共に歩んで下さるのです。この約束にゆだねて、今年一年、のどかに山坂を越えていこうではありませんか。
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