SDA東京中央教会

よいサマリア人のたとえ

SDAとは〜 聖書と証の書の言葉

ルカによる福音書 10章29〜37節
すると彼(ユダヤ人の律法学者)は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「ではわたしの隣り人とはだれのことですか」。
イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。
ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。
そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」
各時代の希望(中巻) 299頁
よいサマリヤ人の物語を通して、キリストは真の宗教の本質を例示しておられる。
真の宗教は、制度や、信条や、儀式にあるのではなくて、それは愛の行為を実行すること、他人に最高の幸福をもたらすこと、真の親切さにあることを、キリストは示しておられる。 
各時代の希望(上巻) 217頁
ユダヤ人とサマリヤ人とは互いに激しい敵意を持ち、できるだけお互いの交渉は一切避けていた。必要な場合にサマリヤ人と取り引きをすることはラビたちから合法的とみなされていたが、彼らとの社交的な交際はすべて非難された。
各時代の希望(中巻) 302〜303頁
エルサレムからエリコへ旅をするには、旅人はユダヤの荒野の場所を通らねばならなかった。道は荒れはてた岩の多い谷間へくだっているが、そこは強盗が出没し、しばしば暴力がふるわれる場所であった。

・・・神はその摂理によって、祭司とレビ人(ともにユダヤ人)に、負傷した被害者が横たわっているところを通らせ、彼が同情と助けを必要としているのを見させようとされた。
この人たちの心が人間の苦悩に対する同情に動かされるかどうかをみようと、全天は見守っていた。
各時代の希望(中巻) 304頁
彼ら(祭司とレビ人)はその負傷者がサマリヤ人かもしれないと思って立ち去った。…しかし今度は別の光景が示された。
あるサマリヤ人が、旅の途中、この被害者がいるところを通りかかったが、彼はその人を見たとき同情した。彼はこの見知らない人がユダヤ人か、それとも異邦人であるかを問題にしなかった。
もしそれがユダヤ人だったら、そして、立場が逆だったら、その男は顔につばきをはきかけ、軽蔑して行ってしまうことを、サマリヤ人はよく知っていた。
しかし、そうだからといって、彼はちゅうちょしなかった。彼はまたこの場所にぐずぐずしていたら、自分自身暴力を受ける危険があることをかえりみなかった。自分の目の前に困って苦しんでいるひとりの人間がいるということが重大であった。
各時代の希望(中巻) 306頁
こうして、「わたしの隣り人とはだれのことですか」という質問は永久に答えられた。
キリストは、われわれの隣人とは、われわれが属している教会や信仰の隣人だけではないことをお示しになった。
それは人種、皮膚の色、あるいは階級差と何の関係もない。われわれの隣人は、われわれの助けを要しているひとりびとりである。われわれの隣人は、敵から傷つけられている魂のひとりびとりである。われわれの隣人は、神の財産である人間のひとりびとりである。